
ハワイ諸島は火山活動によって生まれた島。地球の奥深くにあるホットスポット(マグマ溜まり)から噴出する溶岩によって形作られました。現在、大きな8つの島と、130近くの小島や岩礁からなるハワイ州ですが、すべての島々が一度に誕生したわけではありません。ホットスポットの位置は動きませんが、地表のプレートは一年に約8センチのスピードでゆっくり北西方向へと移動しています。噴火はプレートのもろい部分がホットスポットの上を通過する際に起こるため、島は西から東の順に生まれたと考えられます。
ちなみに8島のなかでは「カウアイ島」の歴史が最も古く、約500万年前に誕生。噴火は徐々に東へと移り、最後に東端に位置するビッグ・アイランド(ハワイ島)が生まれました(約10万年前)。現在もビッグ・アイランドのキラウエア火山では地殻活動が続いていて、噴火と小休止を絶えず繰り返しています。活火山としての規模は世界最大であり、このエリアを含むハワイ火山国立公園は1987年に世界自然遺産に登録されました。さらに、ビッグ・アイランドの東にある海底火山「ロイヒ」の活動も活発で、将来、噴出した溶岩が陸地として海面に現れ、新しい島を形成するとも考えられています。
灼熱の溶岩台地に生命が誕生し、動植物が定着し、やがて人間が住めるようになるまでには、何百万年もの歳月を要します。ハワイとは、豊かに暮らす人々がいるその地下で、今もなお何百年、何千年と火山が生き続けているという、希有な場所ということができます。
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流れ出した溶岩は、噴火時には4000度あるともいわれます。真っ赤な溶岩が海に到達する瞬間 |
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溶岩は固まりながらも海に流れ込み、海水と喧嘩した形が複雑な海岸線を造ります |
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溶岩の隆起した形はそのままに、年月が経ち、植物がそこに顔を現し、生命の営みが始まります |
無人島だったハワイ諸島に、最初に人間が住み着いたのは紀元500〜700年の時代。マルケサス諸島からやってきたポリネシア人が最初の上陸者と伝えられています。ハワイの神話に登場する小さくも強靱な肉体を持った「メネフネ族」こそが彼らであるという説もあります。その後、紀元1100年頃にタヒチ人が大量移住し、各島に分散。神殿や灌漑施設、養魚池などを作り、生活の基盤を整備しました。その後、次第に、タロイモやココナツ、サトウキビなどさまざまな食物や家畜も持ち込まれ、定着していきます。
ところで、マルケサス諸島からハワイまでは3500キロもの距離があります。タヒチからハワイまでは約4000キロ。当時のポリネシア人たちはスターナビゲーション(星の位置を基準にした航海術)や、食料の保存備蓄術など、卓越した航海技術を持ち、小さな双胴のカヌーに乗り込んで海を渡ってきたといわれていますが、はたしてそんなことは本当に可能だったのでしょうか? それを証明するため、1975年、学者たちは航海に利用されていた当時のカヌーを復元した「ホクレア号」を製作し、ハワイからタヒチまでの実験航海を試みました。これが見事成功し、ポリネシア人たちの航海技術の高さが改めて証明されることになりました。
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島はやがて緑豊かな植生をたたえ、人間の暮らしに恵みを与えるようになります。ポリネシア人が渡ったときも、こんな風景だったに違いありません |
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森羅万象に神が宿ると信じたポリネシア人は、いたるところにヘイアウ(神殿・祭壇)を作りました |
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ポリネシアンの何千キロもの航海の奇跡をたどった、伝統航海再現の主役、双胴のカヌー、ホクレア号 |
ポリネシア文化の影響下にあったかつてのハワイでは、古代のアジア諸国同様、森羅万象すべてのものに神が宿るという思想が浸透していました。戦の神である「クー」、創造の神「カネ」、豊穣と収穫の神「ロノ」、海洋や暗闇を司る神「カナロア」の四大神をはじめ、さまざまな神が信仰の対象となり、人々は神に祈りや踊りを捧げることで、その霊力を生活の中に取り込もうとしていたようです。身近にヘイアウ(神殿や祭壇)を作り、また、暮らしの面では、独自の土地分割システムを導入し、完全な自然循環社会を実現していた点も注目に値します。貨幣を持たなかった当時の人々は、川を中心に山の頂から海岸まで続く扇状の土地をひとつの単位(アフプアア)とし、小集団による自給自足生活を営んでいました。畑から出た泥水は地下をくぐらせて海に流したり、飲料水を確保するため、川の上流部は立ち入り禁止にするなど、できるだけ環境を破壊しないためのエコロジー的発想が、当たり前のものとして生活の中に根づいていたといえます。神の恵みとして食物をいただき、薬草を採り、すべては神の宿る大地に再び返すことで、また恵みを得られるという考え方が、古代ハワイアンに浸透していたのです。
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神話や伝説が数多く残るハワイ。写真は、カメハメハも戦った険しいイアオ渓谷(マウイ島) |
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文字を持たなかった古代ハワイアンが残した絵文字、ペトログリフ。石の上に子どもの誕生や家畜など、人々の暮らしが表現されています |
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今もハワイアンの伝統料理として残るポイ。タロイモを蒸してからすりつぶして発酵させたもので、主食とされていました |
1100年頃にポリネシアン人が移住してから数百年もの間、外界との接触が途絶えていたハワイに、初めて西欧人として足を踏み入れたのが英国の探検家ジェームズ・クックです。1778年、大西洋への北西航路の調査中にオアフ島、カウアイ島、ニイハウ島を発見したクックは、カウアイ島のワイメア湾に寄港。物々交換により食料等を調達したのち、北への航海を続けたものの、北西航路の発見に失敗します。翌年、再びハワイに戻り、ビッグ・アイランドに上陸すると、今度は意外にも島民たちの絶大な歓迎を受けることになります。これはちょうど上陸した日が祭りの最中であったこと、島を時計回りにケアラケクア湾(神の道の意味)に入港したこと…など、たまたま偶然が重なり、「クック=島に伝わる神・ロノの化身」と勘違いされたためだったようです。
しかし、徐々に島民との間にいさかいが増え、ついには流血の争いが勃発し、クックは殺害されることに……。 この出来事は、鉄や火薬を使った武器をはじめとする西欧文明の伝来、天然痘、百日咳、はしかなど疫病の蔓延による人口の減少など、その後のハワイに大きな影響をもたらす発端になりました。また、生き残った船員たちが海図を持ち帰ったことも、その後多くの外国船がハワイを訪れるきっかけになったようです。その後、アメリカ人は捕鯨の拠点として目をつけ、ハワイに上陸し、富を得ました。さらに、宣教師も海を渡り、ハワイで英語を広めていきます。
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クック船長がカウアイ島で出会った島の首長の肖像画。鳥の羽を使った立派な帽子とケープを身につけています。クック船長に同行した画家、ジョン・ウエバー作 |
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鳥の羽で覆われた戦いの神、クーカイリモク。ハワイアンは島同士の戦いにはこれを携えていました |
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ビッグ・アイランドの西海岸、コナ・コーストにあるキャプテン・クック記念碑。クック船長が寄港した場所です |
クックが来航するまでのハワイは、数多くの首長が存在し、権力争いを繰り返しながら各地を分割統治していましたが、1775年にハワイ島の王となったカメハメハが全島統一へと乗りだしたのを機に、1810年「ハワイ王朝」が誕生しました。統一の成功の陰には、クックがもたらした西欧文明が大きく影響していたともいわれています。カメハメハはクックとの接触をきっかけに、西欧の武器や戦い方に深い興味を抱き、英国人のジョージ・バンクーバーを参謀として起用。西欧の戦術を導入することにより島内の対抗勢力を制圧するに致りました。つまり、ハワイ王朝は白人の後押しなしには成立しなかったといっても過言ではないでしょう。
その後、カメハメハはサトウキビや白檀の輸出など、国内産業の発展に尽力するものの、輸出相場の変動、外国人のもたらした疫病の蔓延などにより、国力は徐々に低下しました。そして、わずか84年後にはハワイ王朝は終焉を迎えることになります。ちなみに日本人や中国人がハワイに開拓移民として住むようになったのもハワイ王朝の時代。サトウキビ・プランテーションで働く労働力として、1850年代以降、ハワイは多くの外国人を移民として受け入れることにしました。これにより、その後ハワイはさまざまな人種・民族が入り交じった複雑な国家を形成していくことになります。また、生活文化においては、さまざまな民族から得たものとハワイ古来のものを融合させ、食に、ファッションに、芸術に、独自のユニークな文化を作り上げてきたということができます。
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カメハメハ大王がビッグ・アイランドからオアフ島へ攻め入ったとき、戦いの舞台となったのが東海岸。激戦地として知られるヌウアヌ・パリ |
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ハワイ王朝の最後の女王、リリウオカラニ。西洋化が進むなか、ハワイアンの誇りを取り戻そうと努力しましたが、最後には幽閉されてしまいます |
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オアフ島イオラニ宮殿のフェンスに取り付けられているハワイ王朝の紋章。現在の州の紋章もこれにならっています |
ハワイ王朝終焉の後、1898年、ハワイはアメリカに併合され、海外統治領としての時代を経て、1959年にアメリカ合衆国50番目の州となりました。アメリカの軍需景気に乗って観光地としても注目を集めるようになり、産業の中心も農業から観光へとシフト。その後はご承知のとおりハワイは世界に名立たる「リゾート・アイランド」として発展を遂げつつ、今に至っています。
マリンスポーツやショッピングでおなじみの観光地としての顔を持つ一方で、近年は、カメハメハ2世の時代に西欧的な倫理観に沿わない古い因習をすべて排除するとの考え方のもとで抑圧されてきた伝統文化を再び見直そうという動きも活発です。それは、アメリカという大国のなかにあって、少数民族としての立場や、自立を取り戻すための戦いとも重なります。1980年代半ばに起こった「ハワイアン・ルネッサンス運動」がそれで、フラや伝統的な神々、エコロジカルな暮らし、そしてハワイ語などを再認識し、ネイティブハワイアンとしてのアイデンティティを取り戻そうという活動が盛んに行われています。
とはいえ、これは西欧文化を否定するといったものではありません。自分たちのルーツを振り返り、現代の社会に先人たちの知恵を活かしていければというのが基本姿勢。こうした動きにより、ハワイは単なるリゾート地としてではなく、固有の文化を持つ「伝統の島」としても深い魅力を持つようになりました。
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ハワイがアメリカの50番目の州となったときは、巷はお祝いムードでした |
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このころ、すでに日本人移民や中国人移民、その他西洋人も含めて多数の外国人がハワイで暮らしていました |
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ハワイアンの伝統文化を見直そうという気運が、フラやハワイ語などの復活を後押ししています |